放射線量と永遠


 LNT仮説から生まれたのは、1960年代初期に導入された線量預託(dose commitment)の概念である。当時この概念は、核実験の放射性降下物によって有害な遺伝的影響が誘発される可能性に対する関心を反映していた。この概念も関心ももはや忘却の彼方に消えていなくてはならないはずなのに、それからほぼ40年たった今日になっても線量預託の概念は依然として広く使われている。

 1962年に初めて"線量預託"を用いたUNSCEARは、これを「ある実際の出来事、たとえばある一連の核爆発の結果として世界のある一群の人々が受ける平均線量率の、無限時間にわたる積分」というように定義した。このような積分を行うとしたら、何らかの大胆な仮定をすること、そして未来永劫にわたる人口のダイナミクスや環境の変化について超人間的な全知をもつことが必要である。UNSCEARはのちに、いわゆる有限線量預託、つまり50年、500年、10,000年、あるいは何百万年といった任意の期間に限定したものを、少し謙虚な気持ちになって導入した。しかし、最近のUNSCEARの文書にも、もともとの"無限の定義"は依然として残っている。

 線量預託および集団被ばく線量の定義を認めるとしたら、われわれは次のような前提も認めなくてはならないことになる。

  • 個人の吸収線量とリスクとの間のLNT的な関係
  • (線量の加法性による)個人の生涯にわたるリスクの加法性
  • 同じ世代の個人の間でのリスク(線量)の加法性
  • 何世代にも及ぶ個人の生涯の間でのリスク)線量)の加法性
  • 長年にわたる、または何世代にもわたる被ばく線量の蓄積(線量預託)によってあとで出てくる害は、同じだけの線量を瞬間的に浴びたときの害と同じであるという予想
  • ある値の集団被ばくあるいは線量預託による後発性の害は、多数の人々がわずかな線量にさらされた場合でも、少数の人々が大きな線量を浴びた場合でも同じであろうという予想(この予想は、一般に有害な物質を薄めたり分散させたりして、危険な水準よりも低くしていることと相容れないものである)

 UNSCEARは1969年、人工放射線源からの線量預託を比較するのに、便宜的に自然放射線のレベルを参照することを勧めた。しかしながら、線量預託の概念を導入して以来30年の間、UNSCEARは自分自身の勧告に従ってこなかった。自然放射線源から全人類が受ける50年間の集団線量預託(650,000,000人・Sv)は、1993年のUNSCEARの報告書に初めて発表された。しかし、なぜ50年間の計算にとどめたのだろうか?人工放射線については、UNSCEARは無限時間にわたる線量預託という量を考えていたのに、である。人工放射線源について計算するのに用いたのと同じくらいの期間にわたり、過去に受けた自然放射線からの個人線量預託を計算するのは容易である。計算をするときには、過去数百万年にわたって自然放射線が現在と同じ、年間2.4mSvだったと仮定してもよいのである。

 私たちはみなそれぞれ、このような線量預託の値に悩んでいる。これらの値は、何か実質的なものを表しているのだろうか?それとも学術的な抽象概念にすぎないのだろうか?これらの途方もなく高い線量は、医学的にどのような影響を及ぼすのだろうか?

 ある国際的な研究において、カラ海(北極海の一部)における核廃棄物の海洋投棄による、全人類に対する紀元3000年までの集団被ばく線量は、約10人・Svであると推定された。この値の意味を探ってみよう。この値は次のような状況に相当する。

  • 1人の人の、1日に10Svの被ばく(致死的な急性の場合)、または
  • 1人の人の、1年で10Svの被ばく(慢性的影響、たとえばがん)、または
  • 20人の人々の、1日に0.5Svの被ばく(慢性的影響)、または
  • 1000人の人々の、1000年にわたる10−3Svの被ばく(生物学的にも医学的にも重要性なし)、または
  • いま生きている人々とその33世代先までの子孫たち5×109人の1000年間にわたる2×10-12Svの被ばく(重要性なし)

 集団被ばく線量を使うことによって、線量預託の空間的・時間的パターンに関する情報が明らかに覆い隠されてしまう。だがこの情報こそが、人間に対する危険性という観点から生物学的影響を推定するうえでもっとも重要なのである。個人被ばく線量は、何世代にもわたって合算されるものではあり得ない。それは単に、人間は死を免れないものであり、1人が死ぬと、その人が受けた分の線量の蓄積はそれで終わりになるからである。同様に、われわれが吸収した線量によってほかの人と互いに汚染しあうことはないのだから、個人被ばく線量を何世代の人々どうしで合算することはできない。生物には修復過程があり、またがん誘発には多段階の過程が関与していることから、ガン発生に関連する危険性を見積もる上で、個人被ばく線量の小さな寄与に加法性が成り立つとはとても考えられない。集団被ばく線量や線量預託には、いかなる生物学的な意味もないのである。

 これまでしばしば発表されてきた大きな集団被ばく線量や集団被ばく線量預託は小さな個人被ばく線量から導き出されたものである。たとえばUNSCEARの計算には、以下のようなものが入っている。すなわち、過去54年間の核爆発から寄与100,000人・Sv、世界中の人々が今後10,000年にわたって受けることになる原子炉や核燃料再処理プラントからの放射線205,000人・Sv、北半球におけるチェルノブイリ事故の放射線降下物による影響がなくなるまでの600,000人・Sv、そして世界中の人々が過去50年間にわたって受けてきた自然放射線の650,000,000人・Svである。これらの大きな値は一般市民を恐れさせるけれども、個人あるいは人々が核爆発や原子炉、チェルノブイリ事故の放射性降下物や自然放射線から害を受けていることを意味しているわけではない。実は、それらには生物学的にも医学的にも意味のある情報はないのである。むしろ、放射線の危険が差し迫っているという誤ったイメージをつくり上げ、負の社会的および心身的な結果を実際にもたらしている。もし個人の受ける害が些細なものなら、社会の成員全体がずっと昔から受けてきた、あるいははるか未来まで受けることになる害も、些細なものであるはずである―人口がどれだけであるとか、受けた放射線のうちどれだけが自然のものでどれだけが人工的なものかといったことには関係ないのである。集団被ばく線量や線量預託といった意味のない概念は、オッカム(William of Occam)のかみそりによって切り捨てるべきだろう。

    

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